2014年



ーー−9/2−ーー スガレの復讐 


 町内有志の月例飲み会に、マツタケ名人のY氏が、スガレの巣を持ってきた。その日の昼に山に入り、見付けて取ってきたものだという。

 スガレとは、クロスズメバチの俗称である。その幼虫は、珍味として名高い。炒めたり、ご飯に炊き込んだりして食べる。信州の男たちは、スガレと聞くと目の色が変わる。餌でおびき寄せたスガレに目印を付け、巣へ戻るのを追いかける「スガレ追い」は、名物行事だ。そして巣を見付けたら、発煙筒を突っ込んで蜂を麻痺させ、巣ごとゴッポリと頂くのである。持ち帰った巣から幼虫を抜きだし、調理して食べる。地域によっては、成虫も一緒にご飯に炊き込むとのこと。

 包みの新聞紙を開くと、二枚の巣があり、巣からこぼれた幼虫がコロコロしていた。巣の間から、成虫が出てきた。Y氏は、つぶして殺してくれと言った。新聞紙の間に挟んでつぶしたら、動かなくなった。

 しばらく巣を眺めた後、写真を撮った。成虫も撮影しようとして、つぶしたやつを摘まんで手の平に載せた。その直後、刺された。既に死んでいる蜂に刺されたのである。私は予想外の展開に仰天して、「蜂に刺された!」と叫んだ。するとY氏は、「死んだ蜂でもかまっちゃいけないよ。尻に刺激を感じると、刺すんだ。蜂は死んでも、尻は死んでないんだ」と言った。

 蜂は、死んでも恨みを果たすのである。私は、「天晴な武士道精神だなぁ」と感想を述べた。瞬間的に、以前観た時代劇の映画を思い出したのである。

 一人の侍が、悪事をたくらむ首領の屋敷で、数十人を相手に切り合いをした。しかし所詮は多勢に無勢、ついに切り倒された。畳の上に血まみれで横たわる男。剣士の一人が覗き込んで「すでにこと切れています」と言った。それを受けて首領が近づくと、男は必殺剣の一撃で突いた。

 蜂の持つ本能なのだろう。仮に完全に死んではいないとしても、もはや飛べず、動けず、何もできない。自らの末路は、ごく近くにはっきりと見えているはずだ。死んでしまえば、世の中の全ては自分と無関係になる。仕返しをしたところで、自分には何の意味もない。自らが属した種の保存につながる行為だとしても、自分にはもう関係ない。つまり無駄な事なのである。それでも、一撃のチャンスを伺うのだ。

 人の世界だったら、この世に未練を残すような事をしては、成仏できないと聡される。心静かに旅立つのが良いなどとも言う。ところが、蜂はそんな事お構いなしなのである。憎しみと恨みの塊り、復讐の鬼となったまま、あの世に向かうのである。その一途さに、野生の悲哀のようなものを感じながら、赤く腫れた手の平の中央を眺めていた。





ーーー10/14−−− 屋根を塗る


 築24年になる我が家。屋根は鋼板葺きなのだが、数年前から塗り直しが必要ではと気になっていた。夏前に近所の人からそれを指摘されて、本気で心配になった。たしかに白っぽくなっていて、だいぶ古びた感じになっている。同じ町内に塗装業のSさんがいる。来てもらって、二人で屋根に上った。ひどく傷んではいないが、塗り直しの時期には来ているとの事だった。

 作業は自分でやれば良いと言われた。塗料と道具を準備するから、それを使って塗れと。そうすれば、格段に安く上がる。何年か前に、集会所の屋根を塗り直した事があった。その時も、Sさんの指導のもと、皆で作業をした。その後あるご家庭でも、やはり同じようにして、自宅の屋根を塗り直したと聞いた。それなら私でも出来るだろうと思った。我が家は平屋で、屋根の勾配も比較的緩い。安全面でも問題無いと思われた。

 夏の間は、屋根が暑くなって作業ができないから、秋が来たら実施することにした。9月の中頃、Sさんが錆び止め塗料を持ってきた。やり方を教わり、屋根に上った。錆の出ている所を、刷毛でスポット的に塗れば良いとのこと。屋根の表面には、錆びている部分はほとんど無かったので、この作業は気が抜けるほどラクだった。しかし、雪止めはむき出しの鋼材なので、バッチリ錆びている。Sさんに電話をして、雪止めも塗る必要があるかと聞いたら、塗った方が良いと言われた。ワイヤーブラシで擦り、刷毛で錆び止め塗料を塗った。これは結構手間だった。

 数日後、本番の塗装となった。事前準備として、屋根を清掃した。業者に頼めば、高圧洗浄機などでゴミを吹き飛ばすらしいが、今回は自分でと言う事なので、箒で掃くに留めた。

 塗料と道具が持ち込まれた。とりあえず一斗缶2ヶの塗料と、同量のシンナーである。そして道具は、コンプレッサーに長いホースと棒状のスプレーガンが付いた吹付塗装機。Sさんは、専用の工具で塗料の缶の蓋を全面的に切り抜き、別に用意した空の一斗缶にドボドボと注いだ。ちょうど半々になったところで止め、シンナーを加えた。これで、二倍希釈の塗料が二缶出来たことになる。さすがはプロの技だと、感心した。塗料の吸い込み口となるパイプを一斗缶に差し込み、コンプレッサーを始動すれば準備完了。今日塗り終わったら、明日また二度目を塗りなさいと言って、Sさんは帰って行った。

 スプレーガンを持って屋根に上った。表面が白っぽく風化した屋根の表面は、箒で掃いても薄く粉をふいたような感じが残り、ちょっと滑りやすい。それが緊張感を誘い、不快だった。そのうち、瓦棒というタイプの屋根の特徴である、斜面に沿って平行に走る畝状の出っ張りに乗れば滑らない事に気が付いた。それで心理的にずいぶんラクになった。屋根の端の方からシューシューと塗料を吹き付ける。およそ200平米ほどの広さである。作業は遅々として進まないように感じられた。それでも、3時間ほどで塗り終わった。

 翌日は、午後から天気が崩れる予報だったので、朝一番で屋根に上った。正午までに二回目を塗り終わった。途中、様子を見に来たS氏は、梯子を上って施工後の屋根の表面を眺め、「ちゃんと塗れている。これなら大丈夫」と太鼓判を押してくれた。

 気になっていた屋根の塗り直しに、ようやく片が付いた。翌日は雨になった。塗り直された屋根は、撥水性が良く、雨水が丸い水滴になって転がり落ちた。それを見て、おおいに満足した。塗り直しをすれば、20年以上もつそうである。この先死ぬまで、屋根の心配をする必要は無いだろう。





ーーー10/21−−− 役に立つか・・・


 
映画「アバター」の中に、こんなセリフがある。宇宙のかなたの星が舞台である。その星の住人が暮らす土地の地下に、特殊な金属の鉱脈がある。それを狙う地球人と、土地を守ろうとする異星人との間で、対立が起きる。異星人との対話で解決しようと努力をした主人公が、ついにこう言った「彼らとの話し合いは無理だ。彼らが欲しい物を、我々は持っていない」

 この台詞の、映画の中での意味合いはこうであろう。高度に進んだ文明を武器に支配しようとする地球人。対する異星人は、原始のままの生活。しかし、自然の中で精神性豊かに暮らし、満ち足りているから、地球人の文明の中に求めるものは無い。

 私はこの台詞が妙に引っ掛かった。映画のストーリーを離れ、現在の自分を取り巻く社会に当てはめてみても、同様の論理が支配しているように感じたのである。

 二十数年前、この地に越してきた頃、地域の会合に参加すると、寂しい思いをしたものであった。誰も私の話を聞こうとしないのである。自分たちはよく喋るのに、こちらには水を向けない。そして、ちょっと口を挟んでも、乗ってこない。酒の席でもそんな感じであった。これをよそ者扱いと言うのであろうか。しかし、地元の者でも若い世代は、同じように、沈黙を強いられている感じであった。

 相手は自分が欲する物を持っていない、だから話を聞く必要も無い、という事だったのか。今から振り返ると、そのように思い当たる。しかしこれは、田舎社会だけのことではない。出身地に関係なく、自己主張は激しいが、相手の話を聞かないという人は多い。また、私の限られた経験ではあるが、欧米人の中にも、相手に対して露骨に無関心な人が結構多かった。

 利益をもたらさない人の話は聞かない。それは一見合理的な考え方のようにも思える。しかし、そこには決定的な欠点がある。話をしてみなければ、役に立つかどうかは分からないからである。




ーーー10/28−−− 津波被災地を巡る旅


 
東日本大震災で津波被害を受けた、東北沿岸を巡る旅に出た。かねてより一度行きたい、いや行かねばならないと考えていた旅行である。震災後3年半を経て、ようやく実現することになった。

 スタートは名取市閖上。地震発生時、次女は大学ヨット部の訓練でこの辺りの海上におり、危うく津波に襲われるところだった。海岸から平坦な地面が続くこの場所は、見渡す限りの荒れ地となっていた。所々に、家屋の基礎のコンクリートだけが残っていた。

 仙台市若林区荒浜。やはり荒涼とした平坦地が広がっていた。荒浜小学校の建物だけが、ポツンと残っていた。

 石巻市。日和山公園という小高い丘の上に立つと、眼下に市街地が望まれる。地元の人の話を横から聞いたら、海岸からこの丘に至る数百メートルの間に、以前は街並みがあったが、全て津波で流されたとのこと。

 女川町。パワーショベルやブルドーザーが、海岸から少し奥まった場所まで、地面をならしたり、土砂を台形に積み上げたりしていた。この時点ではまだピンと来なかったが、同様の光景をこの後繰り返し目にすることになった。この重機が作業をしている地面の上に、震災前は町があり、人家が存在したのである。

 南三陸町。鉄骨だけになった防災庁舎の無惨な姿が、当時の悲惨な出来事を物語っていた。

 気仙沼。巨大な船舶が陸に乗り上げたり、広範囲な火災が発生した映像などを思い出す地名である。しかし、そのような爪痕はほとんど目にしなかった。大きな都市ほど復興のスピードが早いように感じられたのは、ここだけではない。

 陸前高田市。平坦地の至る所に積み上げられた巨大な土盛り。まるで古墳群のよう。それらを結ぶ、高架のベルトコンベアーで仕切られた空。地面には多数の巨大な重機。

 大船渡。この地は、狭く細長いリアス式の入り江であるが、津波の被害はそれほどでもなかったと聞いていたような記憶があった。実際、のっぺらぼうになってしまった地面も、ほとんど見当たらなかった。しかし、後で調べたら、かなりの被害があったそうである。

 釜石。この大きな町も、復興が進んでいるように見受けられた。周辺の小さな漁村らの状況とは、大きすぎるくらいの差がある。

 大槌町。やはりのっぺらぼうの地面。崩壊したままのコンクリートの建物。橋脚だけ残した橋。

 宮古市。ここは湾が北東に向いているせいか、中心市街地の津波の被害は少なかったようだ。

 田老地区。世界に誇る巨大防潮堤でも守ることが出来なかった町。この広くもない町に残る長大な防潮堤の残骸が、なんともやりきれない。

 田野畑村。端的にショッキングな光景。防潮堤が決壊して、後方の集落が壊滅した。その出来事の跡を、まるでジオラマを見るように、眼下に見下ろした。

 太田名部地区。車で通過した道路の左側に、城壁のような防潮堤が続いていた。その横っ腹に、赤い鋼鉄の扉が開いていて、その奥に健全な姿の集落が見えた。ちょっと驚きの光景だった。後で調べたら、防潮堤によって集落が守られた数少ないケースの一つだったそうである。

 野田村。今回最後に見たのっぺらぼうの地面。積み上げられた土砂。動き回る重機。


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 今回の被災地巡りで、感じた事。

1.津波のエネルギーの巨大さ。閖上地区だけでも、高さ10メートル近い海水の山が、巾数キロに渡って押し寄せ、全ての建造物を呑み込んだ。凄まじい破壊力である。それが、東北沿岸のおよそ300キロの範囲に及んだのだ。地球にとっては、ほんのクシャミ程度の出来事だったかも知れないが、人間社会には膨大な被害をもたらす、自然のエネルギーの巨大さ、恐ろしさ。

2.復興の現状と今後。都会は復興が進んでいるように見えた。一方、沿岸に点在する、町や集落だった所は、住民の気配が消えうせた場所で、重機が地ならしをしたり、防潮堤を積み上げたり、かさ上げの工事をしたりなど、何時終わるとも知れないような土木工事。将来、またこの地に人が住む時が来るのだろうか?

3.防潮堤によって守られた集落と、防潮堤が役に立たず被害を蒙った地域。自然に対して、どれくらいの人工的な手段が、どこまで有効なのか。気まぐれな自然に対して、予想し、対策を立てることの難しさ。

4.行く先々の入り江に、漁港が復活し、たくさんの漁船が見られた。沖には無数のブイが、整然と並んでいた。牡蠣の養殖であろう。海は何事も無かったかのように、人類に幸をもたらしている。






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